こんにちは。さつき台動物病院の院長 多田です。当ブログで何回も申し上げている通り、私は映画をフォレスト・ガンプしか観ません。正確には年1〜2本映画を観ますが、娯楽の為では無く学習の為(話についていけるように)or付き合いです。ちなみに2023年は学習としてファイトクラブを、付き合いで4Dスーパーマリオを観ました。4Dはもう観ないと思います。映画に集中できません。
さて、フォレスト・ガンプはもう100回以上観たでしょうか?音とセリフを聴けば自然とシーンが頭に思い浮かぶので、もうフォレスト・ガンプを観るのに目は必要無くなりました。死ぬまでに全編頭の中で全てのシーンを再生できるようにして、寝たきりや植物人間状態になったら死ぬまでフォレスト・ガンプをループし続けてやろうと思っています。
この映画は無駄なシーンが一切無く、今でも様々なシーンに対する考察や感想を目にしますが最近「ガンプが、ジェニーの産んだ子供が自分の子であることを知らされ、まず(自分と同じように)その子に知的障害が無いかを確認し、子供に問題ないことをジェニーに知らされると、安心して涙ぐむ。」シーンに対して違和感を感じたので考察をしてみました。このシーンに対する解釈は2パターンあると思います。
1、作中でガンプが自身の知的障害によりバカにされるシーンが中盤までは多くあります。バカにされても彼はその事自体を理解していないような素振りを見せますが、実はバカにされた事を理解していてそのつらい経験を自分の子供にさせなくて良かったと感じている。
2、バカにされた事は理解していないが、周りの人の行動が理解できない事が多々あり、その事でつらい思いをしてきた(特にジェニーは何回もガンプの元を去る)ので子供がそのような経験をしないか心配している。
1と2の違いは自分がバカにされていた自覚があるかどうかなのですが、私としてはこのシーンはこの映画にとってややマイナスだと思っています。
1と解釈すれば、バカにされているのを理解していたのにそれを表に出さないのであれば、全てのシーンでガンプの行動は何かしらの思惑があっての行動であると理解できるので、ガンプの行動が知的障害を持っているからこその無垢な行動であるという大前提が崩れます。バカにされている認識ができる位の知性があれば、大統領に「おしっこしたい」とは言わないしタッチダウンしたあとも走り続けないのでは。それに母親の「バカをする者がバカ」を信じている点とも矛盾する。
2と解釈した場合、物語としての整合性は取れるが、「周りの人の行動が理解できない」の元凶はジェニーであり、彼女はちょっと自由に生きすぎた(幼少期に父親に虐待された影響もあると思うが)のでそれにガンプが振り回されちゃったから仕方ない感は否めない。ジェニーは結局ガンプの子供を産むくらいなら、親戚に引き取られるのではなくガンプの実家に住み込んで良いと思う。でも、彼女がガンプを振り回す事で物語が成り立っているので、ビルから落ちて死ななくて良かったと思おう(死んでしまうけど)。というか別にババと母の死とダン中尉の社会復帰だけでガンプは死という運命を受け入れられるようになってる気がするし、ジェニーは死ななくても良くないかと思う。そうしたら息子はガンプの抱えていた脚が悪い(治るけど)、知的障害、片親という三重苦を全て克服できるし。
一見1のようで、子供への愛にあふれており感動的なシーンであるが、1はストーリーの前提が破綻するし、2であればなんだかイマイチなシーンである。作中での時間経過とともにガンプの知能が少しアップした説と唱えるにしても、ジェニーに会いに行くバスを待つベンチで出会う人々に今までの人生を語るが、その人達はちょっとガンプをバカにする事が多く、それでもガンプは真摯に対応している点や、実は歩いて行ける距離である事にも気がついていないのでこの説には無理があると思う。
そのため、"Is he smart? or.."「彼は賢いの?それとも、、、」のセリフは一見感動的なシーンであるが良くないし、変えるべきだと思う。
監督のゼメキスに会ったら、
「バック・トゥ・ザ・フューチャーは3部作映画の唯一の成功例で傑作だと思うし、キャスタウェイもフォレスト・ガンプと同じく生に対して真摯になる事の重要性を説き、そして時に良い結果を伴わない事もあるという点にも共感が持てる。でも、フォレスト・ガンプのあのシーンは良くなかったね。あのシーンのセリフは
”彼はロボットなの?それとも幽霊が見えて学校でいじめられているの?”
の方が良かったと思うよ。」と伝えたいです。